ほとほと嫌になった
いまだにコロナごっこなどを続けている日本にほとほと嫌気がさし、遂に本気で嫌になった。
明日からしばらく日本を出る。
何だ、マスクさえしてたらOKのエボラ並の感染症って。
「みんなおかしいと思ってるけどそうなってるから」とは本気で言っているのだろうか・・・それで良いと思って無いけどしょうがないって、諦めるポイント間違って無いか?
国葬反対デモをしているのは老人だけだがなぜかと不勉強な外国人記者が尋ねたらしい。
こういう時にちゃんと反論できないからまた舐められるんだ。
ちゃんと教えてやれ、日本ではデモに参加する事は学生運動時代の過激なヤバイ奴との刷り込みが酷いせいで未だにその偏見にさらされるため民主主義的抗議活動として認知されていない事、そしてそもそも日本人は常にオーバーワークで疲れ切っており日銭を稼ぐことしか考えられなくなっているため老人しか余裕がないという事を。
ああ、ちょっとの間でも普通の世界を楽しみたい。
しかし中東もいまだにマスクなんぞやっているのでそこのところは不便である。
ヨーロッパ人の「俺ら、偉いだろ」感もうざいったらありゃしないが、まぁ本当に生き方についていつもながら考えさせられるものである。
・・・ある程度金を貯めて脱サラみたいな感じにするのもありか・・・・
なんだか毎日毎日だましだましやってる感がすごい。
一旦、離れて何にも考えないことにする。(と言っても感がるんだろこいつは・・・)
流されやすい知人に思う事
毎日暑すぎて全く頭が回らん。
とにかく日々を無事に過ごす事ばかりに注力しているが、日本国政府の愚かさ具合に否が応でも煩雑な社会問題に引き戻されるのが嫌でならない。
普通の事を普通にこなすのは一等難しい事ではあるが、それにしたってあの岸田という男は本当に国民の事はどうだってよいのだろうなという感じがある。
あの状況で「自助」を掲げてきた菅にも驚かされたが、まだ彼は普通の人であって、隠したい事であっても何度も念を押して尋ねられたら多少ニュアンスが変わってくるという、コミュニケーションとして正常な機能を備えていたように思うが、こと安倍や岸田はそういった能力は見事なまでに持ち合わせてなく、かえって特殊な能力とさえ思えるほどである。
「国葬は国民の過半数が反対だが、すでに諸外国に通達したために引き返せない」がまっとうな意見のように述べられるのもおかしな話である。
この論が正当化されるのであれば、「強姦は悪い事だがすでに部屋に侵入したために引き返せない」もOKになりそうなものである。
まぁこのところの珍騒動のおかげで、必ずしも人の意見はまともなものではないという事を実感したので(ただし民主主義としてはそれらを聞かない事にするのは言語道断である。個人としてどのように扱うかはその人次第であるが)、あまり気にする必要もなかろう。
更に言うなら、国語ができない人間もずいぶんなようである。何というか、大人になっても未だに「先生と生徒」気分の者が非常に多くて、自分が質問した事には必ず自分が分かるように説明すべしだというトンデモを真剣に思っている人間がいるようなのだ。
確か会話のキャッチボールの分析で発言内容を3種類に分けて、大人→子供へのキャッチボールとか、発話者が話した時点で返って来る種類を想定しているものなのだが、予想外の部類から返って来た際に上手く行かなくて不成立になるというのを学生の時分に習ったのだが、言ってみればその想定があまりにも狭いのではないかと思う。
ちょっとこの分析については詳細を忘れてしまった。結構興味深い内容だったのだが。
それにしても、自分のそばにあまりにも”流されやすい”人がいて、毎回心がざわざわする。
本当に絵に描いたように”みんなが見ているものを見て”、”テレビがいう事をそのまま受け取って”、”人の話になんでも「そうですよねー!」と安易に賛同してしまう”、そんな人間なのだが、これをしょうもないと思うわけではなく、何というか若干の恐怖すら覚えるのである。
やせ型であるのにやたらに体力があって、しかしろくにご飯も睡眠も取らず、やれダイエットやら断食やら言うのだが、本当にどんな体をしているのか全く理解が及ばない。
無理ができてしまう体質なのかもしれないが、そもそも無理がきかない体である自分からしてみれば宇宙人のようなものである。
元来、昭和の日本人はこのような化け物じみた人間が普通の社会人のモデルであったようにも思うが、これが多数派だとはとても信じられない。
まぁそういう場所でやっていける者だけが見える場所にとどまっただけで、実際は脱落する者・離れる者も多かったのだろう。
が、この手の人間は本当に自分の意見らしい意見を持っていない。
詳しく聞けばそれなりにネタはあるのだが、いかんせんそれを普段から発揮する事がない。
私が分からないのはこの部分である。
それはそれ、これはこれと置いておける薄情さ、今やっている事がそのまま社会となり世界となるという感覚が欠落している。
人が一人で生きていると本当に思っているのだろうか?
最近読んだ「お金のむこうに人がいる」という本は、当たり前だが経済、社会がどういうものかを原点に立ち戻らせてくれるよい本であった。
そして、この原点こそが今本当に必要な感覚であって、これが共通認識となればおのずとよりよい社会システムも作り出せるのではと思う。
SDGsとか尤もらしい事を説いて猿真似する前に、まず何のために、なぜそうしたいかという基本中の基本を自分の中に持っていなければ、どんな仕事もためにはならないし、不幸になっていくだけだと思う。
今だけ・自分だけの妄想は早々にやめるべきだ。
大がかりなものはいらない、細々と、ひっそりと生きていきたいという人間は結構いるのだが、そう言う人の精神性の中にはかなり自己中心的なものが潜んでいると私は感じる。
大人しいふりをして人を悪魔呼ばわりし、さも自分は被害者を装って他の人に気に入らない人を攻撃させようとする恐ろしい人間も見たことがある。
で、考えないとこういう時に加害者側になってしまうという事なのだが、どうにも前述の人物はそういうようなところがあるような気がして恐怖を覚えてしまうのである。
・・・尤も、その人はそんな事を微塵も考えていないのだろうが。
それとも、考えていないふりをしているのだろうか?
それならより一層、人間心理は複雑である。
安倍氏国葬断行に思う民主主義国家の終焉
「#ワクチン後遺症」タグが「#ワクチン薬害」に進化している。
薬害とは、明確な定義はないものの、一般的に医薬品の有害性を加害者側が故意・過失問わず軽視・無視した結果引き起こされる人災的な健康被害とされている(全日本民医連のHPより)。
現在の様子を顧みれば、まさしく薬害問題であろう。
これまでこのワクチンに関する有害性の指摘については、陰謀だのネガティブな情報だのさんざんに叩かれ続けてきたわけだが、もはや誰もが少なからず疑問に感じ始めているので、この流れは止められないものと思われる。
しかし、SNSやネットニュースに親しみのない人間の認識は驚くほど現実と乖離しており、未だ「感染者数が何万人だ」「まだまだ気を抜けない」などと世間話するありさまで、こちらとしては辟易とするばかりである。
「病院は頑張っている」だの「医療者に感謝」だの、偽善も大概にしてもらいたい。
2年以上、大量の補助金を浪費し、社会機能を停止させておきながら、未だに逼迫などと一体どの口が言うのか。
擁護する方もする方で、一度冷静に考えてみるべきである。
確かに自分が病院に罹れなくなるのは不都合だが、なぜそのような事が起きているのか、その仕組みもろくに知らずにテレビの言うがままに同じ言葉を並べ立てるなと言いたい。
ことコロナについてはこの手の者があまりにも多く、「それは一体誰の言葉?」と言わざるを得ない事が往々にしてある。
そもそも巷で言う「感染者数」だって、正確には「PCR陽性者」だ。
そしてPCRで陽性=コロナ感染ではない。
この程度の事はもうかなり初期の段階からさんざ言い続けているのに、それすらも初耳だと言う者が後を絶たない。
やたらに「飛沫」とやらを恐れるのも訳が分からない。
たちが悪いことに、彼らは黙って座っているだけでも飛沫が飛んでいると思い込んでいる。
「そんな事は思っていない」と嘲笑する者だって、結局は終始無言の通勤電車でご丁寧にマスクを外さない。
なぜなのか聞いても多分答えられない。せいぜい「一応」と言うくらいだろう。
「いつ不意にくしゃみするか分からないから」という言い訳がましい者もいて、ならばここまでに年に何度その機会があったかを思い返して貰いたいところであるが、もうこのような輩は自己正当化するしか能が無いので、何を言っても無駄である。
これこそが最も重要かつ深刻なところで、後に語るが、政府の態度がそのままに国民に伝染しているのではないかと考える次第である。
そして、それゆえに全体主義の加速を憂いるばかりである。
安倍氏が殺害されてから、ものの1週間で国葬儀にすると発表があった。
私はてっきりツイッター内でシンパが勝手に盛り上がっているだけだと思っていたので、このニュースが飛び込んできたときには思わず声を上げてしまった。
一体、何を根拠に国葬などと言うのか。
功績と言うが政治家については功罪と言うべきであって、誰かにとって得になる事でも他の誰かにとってはそうではないという事など山のようにあって、むしろそれが平生行われている事である。
歴代最長なんてのも根拠としては弱いし、とにかく結論ありきで理由を後付けしているようにしか思えない。
こう言うと極端かつ感情的な自称保守勢が
「既に外国からの弔問・弔電がたくさん来ている」
「葬儀となると外国の要人がたくさん来るので警備の観点からも国葬にするべき」
「選挙中に銃殺されるという特異性」
「森友・加計問題は潔白ないし証拠不十分、解決している」
「民主主義を守るため」
「国葬は外交の機会」
などと大変熱く反論してくるのだが、果たして本当に天皇陛下と並び立てるだけの根拠であるのかという事を以下に示したい。
①既に外国からの弔問・弔電がたくさん来ている
普通、来る。現職ではないものの、長期政権で関係者の数は膨大であるし、殺害事件であればよりお悔やみを申し上げるのが普通の対応というもの。逆に何にもメッセージすら寄こさない、反応なしだと「なんだお前」って思うだろう。(メディアが取り上げなければバレやしないが)日本人が毛嫌いしているプーチン氏ですらすぐに弔電をくれた。
②外国の要人がたくさん来るので警備の観点から
・・・国葬でなければ警備が緩くなるのか?自民党としての葬儀でも何なら有志の葬儀であっても、要人が参列するとあらばそこに警備をつけるのは当然なのでは。
コスパが良いとはひろゆき氏が言いだした事だが、それに納得する程度の頭の持主にはなぜか反対すると「税金の額の問題じゃない」と言われ、しかし警備の話をすると「コスパが良いから」と言われる。支離滅裂である。が、気付かないらしい。
どれだけの要人が訪れるのかという点は、別に葬儀の位置づけに関わる事ではない。
③選挙中に銃殺されるという特異性
確かに銃社会でない日本でこのような事件が起きるとは恐ろしい話である。
が、それなら都度、国葬になってしまうのだが、「それは違う、今回は特別だ」となぜ平気で言えるのだろうが。
それだけが根拠じゃないって、じゃあどれが主な根拠なのだ。
その時点でもうこの理由は持ち出すべきではない。
多数派に胡坐をかく者の戯言としか言いようがない。
このような考えで平気でいられるのだから、確かに民主主義は危機的な状況なのかもしれない。
「民主主義とは多数決の原理だ」と学校で教えるせいか、大人になってもそのまま信じ込んでいる者が本当に多い。吐いて捨てるほど存在する。
教え方が雑すぎるのが一番の悪だが、そのまま信じ込んで何十年といられるのも恥ずかしい限りである。
民主主義とは、異なる意見・思想を互いに尊重し、物事を決める時には暴力でなく議論を尽くし、できる限りお互いが納得できるような方向に持っていく事がその本旨である。
お互い持ち寄った案はできるだけすり合わせて、それでも決着がつかない場合は最終的に投票にする。そこで採用されているのが多数決というだけである。
つまるところ、民主主義というのは非常に手間がかかるシステムなのである。
はっきり言って意見の合わない者との共同作業はめんどくさい事この上ない。
さっさと自分の意見を押し通して物事を前に進めたいというのが誰しも本音だろう。
しかし、それでは民主主義とは言えないのであって、その面倒を一つ一つ積み重ねて少しでも多くの人にとって良いと思える妥協点を探っていかなくてはならないのである。
多数派、少数派などというのは本来最終的な投票の結果に過ぎず、その後も議論を続けていけばまた情勢は変わるかもしれない流動的なものと理解するべきである。
それを少数派だから意見は聞かなくてよいなどと一蹴するのは本末転倒であって、むしろこのような考えこそが民主主義の枠から外されるものと思うべきであろう。
(およそ自分が”勝った”と思うからこのような態度に出るのであろうが。すべての者が勝利するのが民主主義と思うべし)
所詮、民主主義はヨーロッパからの輸入品なので、どのようにして出来たか、なぜ重要なのかという歴史・背景をろくに知らないまま何となくそのまま来ているのが現状なのだろう。
たぶん輸入した人間は本場で見て感動したに違いないが、残念ながらそれがきちんと隅々まで伝わるかどうかは別問題なのである。
⑤森友・加計問題は潔白ないし証拠不十分、解決している
公文書の改ざんという日本国家のシステムを揺るがす大問題を引き起こしたのは別問題とでも言うつもりであろうか。
疑惑についてあまりにも報道が過熱していた事は確かだが、赤木氏がその後自殺にまで追い込まれて亡くなった厳然たる事実を無視するとは何事か。
そもそも保守というのは日本国家を愛しているはずなのに、なぜこのような一大事については何も言わないのか。
結局、自分が良いと思うからお前も良いと思え、という考えなのか?
赤木氏の奥様はこの状況についてどのように感じられるだろうか。
加えて、国会で虚偽答弁を繰り返しているのも大問題である。国会軽視も日本国への裏切りではないのか?
⑥民主主義を守るため
犯人はそのような事を一切口にしていない。むしろ、どのような政治的信条も関係なく、問題は旧統一教会というカルト集団への怨嗟であると言っている。
つまり、民主主義への挑戦という意味合いは、第三者が勝手にそう位置づけているに過ぎない。
折しも選挙中であったので、自民党以外のどの議員・候補もまだ興奮冷めやらぬうちに迂闊に発言する事は得策でなく、敢えて自身の選挙活動についての発言に転換するほか無かったのであろうが、何よりもその時はまだ動機も明確でなかった。
が、ことここに来てカルトとの繋がりがもはや否定できないところまで明るみになった今、民主主義への挑戦という文言は的外れであり、ミスリーディングですらあるだろう。
そして、民主主義と謳うなら前述の通り、すでに上がっている反対の意見を聞かずして断行するやり方は到底認められないのである。
⑦国葬は外交の機会
ツイッターでは「国葬は外交のボーナスステージ」だとして、それに納得している者がある程度いるようだ。
非常に騙されやすいと言わざるを得ない。おそらくワクチンもさっさと打ったのだろう。3回目、いや4回目すら検討しているところなのかもしれない。
上記の表現も、とても故人を偲ぶようなものとは思えないが、彼らに言わせてみれば反対派はただ闇雲に嫌がっているだけで物事の裏側を見通せないから気付かない、だそうである。
ならば聞きたいのだが、国葬で訪れる各国の要人と一体何をどれくらい話し合い、国益とできるのだろうか。
平生行っている外交が不十分だからと言うのか、はたまたここでウクライナとロシアの戦争が劇的に変化するとでも言うのだろうか。
なぜ弔問に来た全員が、その場で日本にとって有益な結果をもたらすと言えるのか。
外交外交と言うが、その具体像が全く見えてこない。
そもそも断行しようとしているせいで、国内は分裂状態である。
内政についてもきちんと目を開いて見た方が良い。
以上、いわゆる賛成派の言について突っ込みを入れていったが、それでも彼らは早々に閣議決定される事を心待ちにしているのだろうなと想像に難くない。
岸田はじめ茂木など、自分と異なる意見を全く聞こうとしないところは彼らの言動と驚くほど親和性がある。
歴史が既に教えてくれているのだが、その正体は独裁であって、全体主義なのである。
カルトとは、自らの思想が正しいと頑なに信じ、それにそぐわないものを徹底的に排除・攻撃するものである。
既に日本国という国家は、カルトによって運営され、カルトによって支持されており、その他の比較的マシな者たちと圧倒的少数の普通の人たちを置き去りに爆走している状態なのかもしれない。
ワクチン後遺症という一億玉砕とその後の日本国再生について
「#ワクチン後遺症」がトレンドになっている。
この連休中、ずっとそうだった。何か節目が変わりつつあるのかもしれない。
当然と言えば当然、むしろ遅すぎるくらいであるが、参院選が終わっても未だに政府の方で終わらせる気配が見えない事に愕然とするばかりである。
およそ彼らの頭の中にあるのは、いかに保守層に配慮するか、すなわち国葬の事だけであろうが。
以下、人の為というよりは自分の頭の整理の為に書く。
先日、実際にあった事なのだが、ある人がご家族が感染して今はすっかり回復されたのだが、もう早速にあちこち仕事で飛び回っていて菌をばらまいているのではないかと危惧していると話していた。
もうこの時点で色々と突っ込みどころがあるのだが、その後、世間話ついでに私に「もうワクチン打った?3回目どうだった?」と聞くので、一度も打っていないと明かすと硬直していた。
しかし周囲の誰もが知る通り、一度も陽性になった事もなければ仕事を休んだこともない。
至って健康、むしろ優良児といった具合である。
すると同席していた別の人が、「こういう打たない若い世代があちこちで感染させている」と言うので、打ったところで感染は防がないという事を確認したのだが、私にははてさて全く理解できない事であった。
そもそも、何をもってして「若い人があちこちで感染させ」ると言うのか、そして「打たない」人間がスプレッダーになるという根拠は何なのか、一切欠けてしまっているからである。
およそ小池百合子のようないい加減な老婆が2年ほど前にそのような事を言いだしていたと思うが、事はすでに3年目に突入し、主流となっている種類も変化している中、未だにそのような憶測を信じ切られる理由が分からない。
活動量・活動範囲という点で見れば、若者(どの年齢を指すのかいまいち不明だが)というよりももっと経済的にも時間的にも余裕のある世代の方がさかんで広範囲なのではないか?
今の若者世代はさして金銭的に余裕が無いので、そこまで方々に出かけない気がする。
絶望的なまでにマスクも外さないので、マスクをしないからだというのもお門違いだ。
せいぜい近場で集まるくらいだろう。
そして、酒もあまり飲まないので酒のせいだというのも違うと思う。
よく50代くらいの男性が「今の若者は酒も飲まないし遊びもしない」と言うが、その一方では彼らがどんちゃん騒ぎをするせいで収束しないんだと平気で言うものだから、この手の妄想家はタチが悪い。
そして「打っていない人間が」だが、打てば人に伝播しないだとかウイルス排出量が減るだのといった話は申し訳がないが見た事も聞いた事もない。
当初は”感染を防ぐ効果が期待されている”とは喧伝していたが、結局この点に関しては結果火を見るより明らかで、さしもの政府もその点は認めざるを得ず、”重症化を防ぐ効果”に完全にシフトしている。
そもそも、製薬会社の側は最初から”感染を防ぐ効果については確認されていない”と同意書に記載しているという話だが。
私は打ったことが無いので、同意書の内容については確認のしようが無い。
しかし、打った人間は誰も覚えていないどころか読んでいない人間が大多数である。
このあたりのバランスの悪さ、自身への無関心さにはおそましさすら覚える。
まぁ、この点に関しては日本人の大好きなマスクについても同様であるが。
なぜ販売会社側が言っていない・書いていない事を勝手に補ってそれが真実であると思えるのであろうか?
薬事法上嘘の記載になるためウイルスを防ぐなどとは書けないわけであるが、もうその時点で答えは出ているではないか。
なのに必死に効果があるとしがみついている様は、滑稽というより哀れである。
そして思うに、このような後戻りできない哀れな状態が、至る所で起きているのである。
それが冒頭のワクチン神話に繋がるわけであるが、そもそも謳ってもいない効果について勝手にあると思い込み、真正面から真実を突き付けられた時、えてして返ってくるのは猛反発か、この人は陰謀論者だというこれまた哀れな自己正当化作用なのである。
正当化、というよりは自己防衛というべきなのかもしれない。
とにかく自分の選択が間違っていなかったという事を証するためなら、たとえその論が破綻していようが無理筋であろうが、部分的にでもかすりさえすればそこにしがみつくので、冷静に俯瞰してみれば狂気の沙汰という具合なのである。
よく比較されるが、本当に第二次世界大戦時と同じ構図であると思う。
竹槍などいくらやったところで遥か上空から爆弾を落としてくる相手に敵うわけがないのだが、多分この時代、人々が考えていたのは良くて「上陸してきた際には返り討ちにしてやる」程度で、もっと一般的には何も考えていなかったものと思われる。
とにかく皆がそうしているから、戦意高揚のためにそうするというだけなのである。
本当に勝ちたいのであればそんな無駄な労力とリソースを割かずにまともな戦略の一つでも考えるべきなのであるが、そうしないあたりが何とも愚かしいというか、涙ぐましいようで馬鹿馬鹿しく、しかし大真面目にやっているのでこれまた狂気なのである。
尤も戦時中には、悪法も法なりで警察という名の暴力組織が跋扈していたので抗う事は出来なかったであろうが、現代はある意味もっと深刻で、たかだが人の「お願い」ごときで命令されたと勘違いし、従うばかりかかえって擁護するという謎の現象が起きているのである。
決して真面目さゆえではないと私は思う。
本当に真面目ならばそれが客観的に正当性のあるものなのか、根拠はどこにあるのかを必ず追及した上で行動に移すからである。
何も考えずに従う事は真面目さではなく、まして勤勉でもなく、ただ自分が均一化された群衆の構成要素であるという証左に過ぎないのではないか。
あえて一人と書かなかったのは、彼らには一個人としての自覚が欠如していると思われるからである。
そう言うと躍起になって反発してくるのだが、反論ではなく、あくまで反発である。
ここで冷静に反証できるような知性を見せつけられたことはただの一度もないからである。
群衆をボロカスに書いたが、そんな群衆でも人間に戻れるチャンスはあると思う。
それが己の感情である。
酷い言われように傷ついて悲しい、何でそんな風に言われなくちゃならないんだと怒る、それらは大事なその人の感情である。
(ただしここで重要なのは、周りに誰もいない時に限る。他の人が怒っているのを見て同調するのは己の感情とは言えない)
そこでそのままにするのではなく、なぜそのように感じたのかについて目を向けてほしい。
なぜ悲しいのか、なぜ腹が立つのか、おそらくその理由はそんな人間だと思われたくないからである。
であれば、現状すでにそう思われているという事実に対し、自分の今からの態度・行動を見直すチャンスとなる。
少し気を付けようという気になれば、ただ他人に同調するだけの自分を抑制する事はできるのである。
心の中に小さなアリストテレス先生でも宿らせて、常に「それはなぜ?」と問いかけてみれば、案外それが思い込みであったと気付く筈である。
私は経験上、日本人の殆どはそこまで強情ではないので、冷静になればちゃんと考えられる人間が多いと思っている。
問題は大体、誰が言ったかも分からない妄言をあっさりと信じすぎる事、自分で調べに行かない事、とにかく打たれ弱いので他責的になりやすい事などであると見ている。
パウロ・コエーリョの『アルケミスト』に書かれている事だが、人は「実際に傷つくことよりも、傷つくことを恐れる方が辛い」のである。
これまでに自分の人生を賭ける瞬間があったかどうかで今回の騒動をどう生きたかが違うのではないかと思うが、私はこれほどまでに、今まで哲学を学んできて良かったと思う事は無い。
とりわけ第二次大戦については興味深く見てきた。
研究と言えるほどのものではないが、非常に現在にもその危険性があると感じてきたからである。
ドイツもまたずいぶんと独裁的で、いつもの合理性やら思考力やら寛容性やらはどこへ行ったのかと思う有様である。
やはりあの頃から、戦勝国も敗戦国も、あまり性質としては変わっていないのだろうと思う次第である。
それゆえ、日本は再び玉砕し、壊滅的なダメージを負った後に再生していくのだろう。
論理性の不完全さと議論・判断における人間の取るべき態度について
科学は哲学の後に続く。
科学だけを信奉する者、哲学だけを顧みる者はどちらも現実をおざなりにする。
それにしても、最近はやたらと科学ばかりが重視されて人の思考や感じ方についてはずいぶんと品性を下げられたものだ。
何が困るかと言えば、往々にしてこの科学というのが本当に広く全般を指す科学ではなく、ごく一部の、場合によってはたった一つの論文の事を指すばかりというケースが少なくない事である。
例えば、頻繁に科学を引き合いに出す者は、人間の情動や本能を軽んじる。
何故だか知らんが、科学の前に人間の自然な心の作用は馬鹿にされるのである。
人間が住む世界で、自分も人間であるのに、人体を軽視するとは本末転倒もいいところである。
なぜなら情動や思考、本能をも含め、それらはみな人間の体のうちから生じていることであり、本来科学的な範疇のものだからである。
一個人の思想や、明確に言語化されていない心の様相であっても、それは人体のうちから生じた科学的謂れのあるものであり、それ自体に何ら信憑性を疑うところはない。
よって、個人同士、あるいは集団においてもその一人一人に科学性を問う必要は全く無い。
人がそのものとしてある以上、それは常に証明されているのである。
問題になるのは、各自の意見が対立した時、その優劣を決める際である。
ここで重要視されるのは概して論理性であるが、これは往々にして先の科学に通じるものであり、何をもってして正しい論理性となるのかと言えばいくつかの文献や論文なのである。
時に常識も説かれるが、科学は常識を疑い検証する側面もあるので、これは論理性とみなされない可能性がある。
さて文献にしろ論文にしろ、100%正しいというものはなかなか提示できないもので、論理と論理の衝突ではどちらか一方を完全に打ち負かすことは難しい。
そもそもにして、そのようなあり方は議論とは程遠く、この点から古代ギリシャの議論は非常に民主的であると同時に賢明であったと思う。
昨今は相手を完全に打ち負かす、すなわち論破することに執心しがちだが、これは剣や銃での戦いが言葉に代わっただけで結局は正論でも何でもなく、ただの嫌がらせのようなものである。
人間がより良い社会・世界を形成していこうと目指すのであれば、議論は不可欠であるが、残念ながら科学では必ずしも正しい方向へと導けない可能性は大いにあるのだ。
そこで、最も肝心なのは真実と考える。
真実を中心に物事を考えていれば、不完全な科学に反映しきれていない現実の重要な部分をも見落とさず、より幅広く現実的、そして人間らしい判断を下せるのではないかと思う次第である。
世界とはすべてを内包した総合社会なのだから、真実の希求は世界に生きる人類の根源的な指針になるのではないかと思う。
そのようなことを、日本のコロナ騒動にいい加減ウンザイしながら思った。