ワクチン後遺症という一億玉砕とその後の日本国再生について
「#ワクチン後遺症」がトレンドになっている。
この連休中、ずっとそうだった。何か節目が変わりつつあるのかもしれない。
当然と言えば当然、むしろ遅すぎるくらいであるが、参院選が終わっても未だに政府の方で終わらせる気配が見えない事に愕然とするばかりである。
およそ彼らの頭の中にあるのは、いかに保守層に配慮するか、すなわち国葬の事だけであろうが。
以下、人の為というよりは自分の頭の整理の為に書く。
先日、実際にあった事なのだが、ある人がご家族が感染して今はすっかり回復されたのだが、もう早速にあちこち仕事で飛び回っていて菌をばらまいているのではないかと危惧していると話していた。
もうこの時点で色々と突っ込みどころがあるのだが、その後、世間話ついでに私に「もうワクチン打った?3回目どうだった?」と聞くので、一度も打っていないと明かすと硬直していた。
しかし周囲の誰もが知る通り、一度も陽性になった事もなければ仕事を休んだこともない。
至って健康、むしろ優良児といった具合である。
すると同席していた別の人が、「こういう打たない若い世代があちこちで感染させている」と言うので、打ったところで感染は防がないという事を確認したのだが、私にははてさて全く理解できない事であった。
そもそも、何をもってして「若い人があちこちで感染させ」ると言うのか、そして「打たない」人間がスプレッダーになるという根拠は何なのか、一切欠けてしまっているからである。
およそ小池百合子のようないい加減な老婆が2年ほど前にそのような事を言いだしていたと思うが、事はすでに3年目に突入し、主流となっている種類も変化している中、未だにそのような憶測を信じ切られる理由が分からない。
活動量・活動範囲という点で見れば、若者(どの年齢を指すのかいまいち不明だが)というよりももっと経済的にも時間的にも余裕のある世代の方がさかんで広範囲なのではないか?
今の若者世代はさして金銭的に余裕が無いので、そこまで方々に出かけない気がする。
絶望的なまでにマスクも外さないので、マスクをしないからだというのもお門違いだ。
せいぜい近場で集まるくらいだろう。
そして、酒もあまり飲まないので酒のせいだというのも違うと思う。
よく50代くらいの男性が「今の若者は酒も飲まないし遊びもしない」と言うが、その一方では彼らがどんちゃん騒ぎをするせいで収束しないんだと平気で言うものだから、この手の妄想家はタチが悪い。
そして「打っていない人間が」だが、打てば人に伝播しないだとかウイルス排出量が減るだのといった話は申し訳がないが見た事も聞いた事もない。
当初は”感染を防ぐ効果が期待されている”とは喧伝していたが、結局この点に関しては結果火を見るより明らかで、さしもの政府もその点は認めざるを得ず、”重症化を防ぐ効果”に完全にシフトしている。
そもそも、製薬会社の側は最初から”感染を防ぐ効果については確認されていない”と同意書に記載しているという話だが。
私は打ったことが無いので、同意書の内容については確認のしようが無い。
しかし、打った人間は誰も覚えていないどころか読んでいない人間が大多数である。
このあたりのバランスの悪さ、自身への無関心さにはおそましさすら覚える。
まぁ、この点に関しては日本人の大好きなマスクについても同様であるが。
なぜ販売会社側が言っていない・書いていない事を勝手に補ってそれが真実であると思えるのであろうか?
薬事法上嘘の記載になるためウイルスを防ぐなどとは書けないわけであるが、もうその時点で答えは出ているではないか。
なのに必死に効果があるとしがみついている様は、滑稽というより哀れである。
そして思うに、このような後戻りできない哀れな状態が、至る所で起きているのである。
それが冒頭のワクチン神話に繋がるわけであるが、そもそも謳ってもいない効果について勝手にあると思い込み、真正面から真実を突き付けられた時、えてして返ってくるのは猛反発か、この人は陰謀論者だというこれまた哀れな自己正当化作用なのである。
正当化、というよりは自己防衛というべきなのかもしれない。
とにかく自分の選択が間違っていなかったという事を証するためなら、たとえその論が破綻していようが無理筋であろうが、部分的にでもかすりさえすればそこにしがみつくので、冷静に俯瞰してみれば狂気の沙汰という具合なのである。
よく比較されるが、本当に第二次世界大戦時と同じ構図であると思う。
竹槍などいくらやったところで遥か上空から爆弾を落としてくる相手に敵うわけがないのだが、多分この時代、人々が考えていたのは良くて「上陸してきた際には返り討ちにしてやる」程度で、もっと一般的には何も考えていなかったものと思われる。
とにかく皆がそうしているから、戦意高揚のためにそうするというだけなのである。
本当に勝ちたいのであればそんな無駄な労力とリソースを割かずにまともな戦略の一つでも考えるべきなのであるが、そうしないあたりが何とも愚かしいというか、涙ぐましいようで馬鹿馬鹿しく、しかし大真面目にやっているのでこれまた狂気なのである。
尤も戦時中には、悪法も法なりで警察という名の暴力組織が跋扈していたので抗う事は出来なかったであろうが、現代はある意味もっと深刻で、たかだが人の「お願い」ごときで命令されたと勘違いし、従うばかりかかえって擁護するという謎の現象が起きているのである。
決して真面目さゆえではないと私は思う。
本当に真面目ならばそれが客観的に正当性のあるものなのか、根拠はどこにあるのかを必ず追及した上で行動に移すからである。
何も考えずに従う事は真面目さではなく、まして勤勉でもなく、ただ自分が均一化された群衆の構成要素であるという証左に過ぎないのではないか。
あえて一人と書かなかったのは、彼らには一個人としての自覚が欠如していると思われるからである。
そう言うと躍起になって反発してくるのだが、反論ではなく、あくまで反発である。
ここで冷静に反証できるような知性を見せつけられたことはただの一度もないからである。
群衆をボロカスに書いたが、そんな群衆でも人間に戻れるチャンスはあると思う。
それが己の感情である。
酷い言われように傷ついて悲しい、何でそんな風に言われなくちゃならないんだと怒る、それらは大事なその人の感情である。
(ただしここで重要なのは、周りに誰もいない時に限る。他の人が怒っているのを見て同調するのは己の感情とは言えない)
そこでそのままにするのではなく、なぜそのように感じたのかについて目を向けてほしい。
なぜ悲しいのか、なぜ腹が立つのか、おそらくその理由はそんな人間だと思われたくないからである。
であれば、現状すでにそう思われているという事実に対し、自分の今からの態度・行動を見直すチャンスとなる。
少し気を付けようという気になれば、ただ他人に同調するだけの自分を抑制する事はできるのである。
心の中に小さなアリストテレス先生でも宿らせて、常に「それはなぜ?」と問いかけてみれば、案外それが思い込みであったと気付く筈である。
私は経験上、日本人の殆どはそこまで強情ではないので、冷静になればちゃんと考えられる人間が多いと思っている。
問題は大体、誰が言ったかも分からない妄言をあっさりと信じすぎる事、自分で調べに行かない事、とにかく打たれ弱いので他責的になりやすい事などであると見ている。
パウロ・コエーリョの『アルケミスト』に書かれている事だが、人は「実際に傷つくことよりも、傷つくことを恐れる方が辛い」のである。
これまでに自分の人生を賭ける瞬間があったかどうかで今回の騒動をどう生きたかが違うのではないかと思うが、私はこれほどまでに、今まで哲学を学んできて良かったと思う事は無い。
とりわけ第二次大戦については興味深く見てきた。
研究と言えるほどのものではないが、非常に現在にもその危険性があると感じてきたからである。
ドイツもまたずいぶんと独裁的で、いつもの合理性やら思考力やら寛容性やらはどこへ行ったのかと思う有様である。
やはりあの頃から、戦勝国も敗戦国も、あまり性質としては変わっていないのだろうと思う次第である。
それゆえ、日本は再び玉砕し、壊滅的なダメージを負った後に再生していくのだろう。