論理性の不完全さと議論・判断における人間の取るべき態度について
科学は哲学の後に続く。
科学だけを信奉する者、哲学だけを顧みる者はどちらも現実をおざなりにする。
それにしても、最近はやたらと科学ばかりが重視されて人の思考や感じ方についてはずいぶんと品性を下げられたものだ。
何が困るかと言えば、往々にしてこの科学というのが本当に広く全般を指す科学ではなく、ごく一部の、場合によってはたった一つの論文の事を指すばかりというケースが少なくない事である。
例えば、頻繁に科学を引き合いに出す者は、人間の情動や本能を軽んじる。
何故だか知らんが、科学の前に人間の自然な心の作用は馬鹿にされるのである。
人間が住む世界で、自分も人間であるのに、人体を軽視するとは本末転倒もいいところである。
なぜなら情動や思考、本能をも含め、それらはみな人間の体のうちから生じていることであり、本来科学的な範疇のものだからである。
一個人の思想や、明確に言語化されていない心の様相であっても、それは人体のうちから生じた科学的謂れのあるものであり、それ自体に何ら信憑性を疑うところはない。
よって、個人同士、あるいは集団においてもその一人一人に科学性を問う必要は全く無い。
人がそのものとしてある以上、それは常に証明されているのである。
問題になるのは、各自の意見が対立した時、その優劣を決める際である。
ここで重要視されるのは概して論理性であるが、これは往々にして先の科学に通じるものであり、何をもってして正しい論理性となるのかと言えばいくつかの文献や論文なのである。
時に常識も説かれるが、科学は常識を疑い検証する側面もあるので、これは論理性とみなされない可能性がある。
さて文献にしろ論文にしろ、100%正しいというものはなかなか提示できないもので、論理と論理の衝突ではどちらか一方を完全に打ち負かすことは難しい。
そもそもにして、そのようなあり方は議論とは程遠く、この点から古代ギリシャの議論は非常に民主的であると同時に賢明であったと思う。
昨今は相手を完全に打ち負かす、すなわち論破することに執心しがちだが、これは剣や銃での戦いが言葉に代わっただけで結局は正論でも何でもなく、ただの嫌がらせのようなものである。
人間がより良い社会・世界を形成していこうと目指すのであれば、議論は不可欠であるが、残念ながら科学では必ずしも正しい方向へと導けない可能性は大いにあるのだ。
そこで、最も肝心なのは真実と考える。
真実を中心に物事を考えていれば、不完全な科学に反映しきれていない現実の重要な部分をも見落とさず、より幅広く現実的、そして人間らしい判断を下せるのではないかと思う次第である。
世界とはすべてを内包した総合社会なのだから、真実の希求は世界に生きる人類の根源的な指針になるのではないかと思う。
そのようなことを、日本のコロナ騒動にいい加減ウンザイしながら思った。